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川尻

昔話

奥山の川

川尻歴史短編小説 奥山の川 ~川尻むかし話~

 

作 佐子 慎一

 

 

時は戦国、天正八年(一五八十年)六月、本能寺の変が起きる二年前の出来事である。因伯両国(現鳥取県)を攻略するため羽柴秀吉は姫路より北に軍を進めていた。 福本、大山、追上村をすぎ生野峠を登りきった。峠のてっぺんには茶屋があった。殿のすぐそばにいた黒田官兵衛が、「一同、止まれ休憩じゃ」、と、軍旗を挙げた。 兵も軍馬も長旅の上、この峠も相当きつく疲れ果てていた。特に軍馬はこのまま因伯まではもたない状況であった。それを察した官兵衛は、秀吉公に相談する為に生野峠で兵を止めた。

 

「殿、軍馬が足をことのほか痛めております。このままでは進軍は難しいと思いますが」と、「そうか官兵衛、皆も疲れているであろう、一服せい」 「ははあ」 官兵衛は、すぐさま峠茶屋の主人を呼んだ。 茶屋の中から手もみしながら小柄な主人らしき男が出てきた。 「主人、ここで一服させてもらう、皆にふるまってやってくれ。ここの峠の名物は何か」 「ここの名物は団子とおでんがあります。

 

特におでんはよくしゅんで大変おいしいと旅の人に喜んでもらっております。」 その話をしている声が殿にも聞こえたのか、 「そのしゅんだおでんを早く持て」と、籠の中から殿の声が聞こえた。 茶屋のおでんも生姜醤油をつけて食べる姫路のおでんと一緒なので、ことのほか喜ばれおかわりをして食べられた。 峠茶屋だけのおでんては足りず、峠下の直右エ門茶屋からも運びどうにか賄えた。 殿は非常に喜び諸国の大名に、今後この峠を通るときには峠茶屋と直右エ門茶屋をひいきにするようにお達しを出された。 その後、二軒の茶屋は末永く繁栄していった。 兵もおでんや団子を食べ終え、身体を休めていた。 「ところで主人、今軍馬が疲労と病で足を痛め難儀している。

 

何かいい思案はないか」と、官兵衛が問うと茶屋の主人が「この峠の下に真弓村があります。そこの長老に聞けばいい思案があると思います」 「それは、かたじけない。案内していただけないか」 官兵衛は、家臣数人を連れ、茶屋の主人と真弓村まで下がり、長老の屋敷を訪ねた。 事情を話しすると村の長老は「この川の向こうに川尻村というところがあります。そこに大日如来が祀られている円福寺がございます。この身仏は民の幸せは元より、牛馬の厄難をはらすことについて霊験新たかで、遠近から農夫達が大勢訪れ大変信心されております。」

 

官兵衛は長老の話に大きく眼を開き 「それは誠か!」 長老は官兵衛はどす効いた低い声で言った。 「すぐに大日如来に祈願されよ。

 

よらば貴殿は真の軍師となれるうであろう。」 「あい解った!」 官兵衛は長老に礼を言い、秀吉の元に戻って行った。

 

官兵衛が真の秀吉の軍師となった瞬間であった。 官兵衛は息せき峠茶屋に戻った。中々息が戻らない。水を一杯一気に飲み干し 先ほどの長老の話を秀吉に伝えた。

 

殿は 「官兵衛、すぐに川尻村へ出発じゃ 先導せい!」 足を痛めていた馬もしばらく休んでいたのが功をそうして、ゆっくりなら歩けるぐらいに回復していた。

 

真弓村の中を通り岩ケ花を通り、摺淵(するぶち)を曲がったところまでゆっくり兵を進めてきた。 しかし又馬が歩かなくなってきた。 官兵衛が、「あと少しだ。しばし一服じゃ!」と、号令をかけた。 籠の中に涼しくさわやかな風が入ってくるので、秀吉が籠の扉を少し開け顔を見せた。 「いい風じゃ、少し外にでてみるか」 官兵衛がすぐさま籠の側に来て辺りを見渡した。 「殿、大丈夫でござる。どうぞ外へ」と、 草履をそろえて差し出した。 秀吉は籠を出、大きく伸びをした。

 

「気持ちいいのう。ここら辺りの空気は美味しい」 そう言って辺りを少し歩いた。黒岩の谷から流れ落ちる谷川の美しさにしばし見とれていた秀吉は、落ちる谷川の美しさにしばし見とれていた秀吉は、そのすぐ側にあるお地蔵さんに眼を奪われた。 それはそれは大きな大きな岩の下の隙間にある小さなお地蔵さん、秀吉はしばらく一寸とも動かず見つめていた。

 

何かを感じて、 「このお地蔵様は何というお地蔵様か。官兵衛、知る者はいないのか」と、尋ねた。 官兵衛は、はたと困り土地の者に尋ねようとした。 眼を川の方に向けると、そこに田んぼの畔で煙草を吸い、田を眺めている老人がいた。その老人に官兵衛は尋ねた。 「ちょっと尋ねるが、このお地蔵様は何というお地蔵様か」 老人はキセルのたばこの火をポンと手のひらに乗せ、 「へい、このお地蔵様は、民の願い事をなんでも叶えて下さるお地蔵様です。川尻村の皆が募っております。

 

しかし、皆はここは、見ての通り長い田んぼがあり長田と呼んでいます。村の者は「長田のお地蔵さん」とよんでいますが、あらたまった呼び名はありません。」と、老人は言った。 お地蔵様の前にいた秀吉は、それを聞き煙草を吸う為に家臣に火をつけさし、大きく煙を吹き出した。 「この霊験あらたかなお地蔵様を、火打場地蔵尊と名付けよ」と、老人に伝えた。 それ以降「火打場地蔵尊」として末の世まで川尻村の守り地蔵として鎮座されている。 秀吉の言葉に感銘し、家臣の一人が長田の田んぼの畔に生えていた野の花を摘み、お地蔵様に供え手を合わせた。

 

又一人の家臣が滝のように流れる澄み切った谷川の水を竹筒に汲み、お地蔵様に供えた。 家臣の一人が長田の田んぼの畔に生えていた野の花を摘み、お地蔵様に供え手を合わせた。又一人の家臣が滝のように流れる澄み切った谷川の水を竹筒に汲み、お地蔵様に供えた。 官兵衛は、懐から金子(きんす)を出し、お地蔵様に供え静かに手を合わせると、皆一同今後のわが身の無事と、川尻村の繁栄を祈り頭を下げ、合掌した。

 

「よーし 出発じゃ!」官兵衛の掛け声に一同 「オー!」と叫び、秀吉一行は日打場地蔵尊を後にし、円福寺を目指した。 秀吉一行は、川尻村の入り口あたりまで来た。 周りは田んぼ・畑・茶畑などが広がっていた。 そこに少し大きな谷川があり、清らかな水が流れていた。 家臣達は苦しそうにしている軍馬の姿をみかね、川の洗い場に積みおいてあった桶を借り、谷川に降りて水を汲み上げ軍馬の足をやさしく洗ってやった。

 

そして、軍馬の前に水桶を置いてやると、馬は美味しそうに一心不乱に水を飲んでいた。 馬もずいぶん落ち着いてきたように思えた。 しかし、目指す円福寺は周りには見えなかった。 官兵衛は村の者に尋ねようとしたが、村人の姿は近くにはなかった。 しばらくすると、川の向こう側に牛を連れた村人らしき男が近づいてきた。

 

谷川を挟みこちら側から官兵衛が、 「この村の住民か」 「そうでございます」 「円福寺に参りたいのだが、どうすればよいか」 「お寺はこの川を渡り、上の方向にございます。」と言って、村人はうかむ顔をしていた。 それを籠の窓を開け見ていた秀吉は、村の男が困った顔をしているのに気がついた。 秀吉は籠から降り、男に言った。 「なぜそのようなしかめっ面をしている。何か心配事でもあるのか。」と、聞くと、男は、 「この川は奥山川(おっきゃまがわ)といいます。この村の命の川であります。

 

村の者はすべてこの川のおかげで暮らしております。ここに木橋があるのですが、いつも大水が出るとすぐに流され、難儀しております。このたびも流され橋がなく、牛も渡れなく困り果てています。」 「牛も通れないのでは、田んぼも行けずに困るであろう。我らも今から円福寺に参るのもこの川を渡らなければならない」 秀吉はすぐさま家臣に命じた。 「皆の者、川尻村の民のためにここに橋をかけるのじゃ!

 

大水でも流れない丈夫な橋をかけるのじゃ!」 その掛け声に家臣たちは一斉に動き出した。木を切る者、網を編む者、石を積む者、それぞれ手分けし、あっという間に丈夫な橋が出来上がった。 その橋の普請を、村人は集まり見ていた。 そして、立派な橋の出来上がりに村人達は、たいそう喜び秀吉一行に深く頭を下げお礼の言葉を口々に言った。 その橋を村人は「馬橋(うまばし)」と名付け、この場所は後世地名として残っている。 しばらくし、秀吉一行はその「馬橋」を渡り、円福寺を目指し坂を上って行った。 村の一番上に円福寺はあった。 境内は静かで鳥のさえずりが聞こえていた。すると、声を聞きつけたのか、庫狸から住職らしき者が出てきた。

 

「そなたはこの円福寺のご住職か?」

 

「さようでございます。よくお越しいただいた。さあさあ、休んでくだされ。」 そう言うと、数人の村人がお茶を入れ、兵たちをもてなした。 一息入れて官兵衛が住職に言った。 「このお寺は牛馬の厄難をはらすことについて霊験新たか隣村の長老に聞いた。 このように軍馬が病にかかり非常に難儀しておる。御祈祷していただけないか。」 「わかりました。今すぐ祈願してしんぜましょう。」

 

住職はすぐ本堂に入り、準備を始めた。秀吉と官兵衛は本堂に入り正座した。 家臣は境内で待機していた。 軍馬は「つなぎ所」に降り、奥山川の清流から汲んできた水を馬に浴びせながら、念仏を唱え続けた。 すると馬の鳴き声が次第に小さくなり、馬が「カッポ、カッポ」と少し飛び跳ねるようなしぐさに変わった。 馬が楽しそうに踊っているように見えた。 秀吉は、 「おお、何ということか。」馬がかろやかに踊っているぞ。」

 

この光景を皆驚いてしばらく茫然と見入っていた。 官兵衛も見ていたが、はっと我に返り 「殿、まあ、なんということでしょう!この素晴らしい光景は」 家臣たちも、思わず一斉に、 「エイ エイ オー! エイ エイ オー! エイ エイ オー!」 と、かけ声をあげ、境内は感動の渦と化した。 日も暮れ始めていたので秀吉は、 「本日はこの円福寺にて本陣を置く。今夜は盛大に宴を開くぞ。

 

心いくまで食べて飲んでくれ。ご住職を充分おもてなしせい!」 と、村中に聞こえるぐらいの大声で言った。 夜は、境内は松明(たいまつ)がこうこうと照らしている中、 川尻村の老人から子供まで全て寺によばれ、朝まで唱えや、踊れの大騒ぎであった。 そして翌朝、秀吉は丁寧に住職や村人に礼を言った。 「これから我らは因伯に向かわなくてはならない。

 

この俺は又日を改めてお伺いする。」と、 申し添えて寺より坂を下って行った。 秀吉一行は昨日奥山川に架けた「馬橋」を渡り、真弓村方向へ戻って行った。途中、「火打場地蔵尊」に再度お参りして行ったことは言うまでもない。

 

文禄二年(一五九三年)、天下を治めた秀吉は家臣を川尻村に使わし、円福寺大日如来を礼拝し、因伯攻略に成功したことが、秀吉公が天下統一の礎(いしずえ)をなったことを報告した。 そして数々のお供え物を献じると共に、なお且つ寺領六石を寄進された。 その寺領の一部が現在も「御蔵(ごぐら)」という呼び名で残っている。

 

その後、川尻村は益々繁栄し、円福寺は人々の安らぎを与える場所として、又、牛馬安全のお寺として末永く栄えることとなる。 古(いにしえ)より砥石場(といしば)の上から湧け出てくる川尻村の母なる川「奥山川」は、これからも川尻を見守りながら、永遠に流れ続ける。

 

 

 

(この物語は円福寺縁起を参考にしていますが、フィクションです。)

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